この4月は、いろいろと難儀でした。
骨折、ユキちん死去、実父死去、仕事ヤバイ...
7日、階段から落ちて骨折。
前日は街を歩いていても、歩きながら気を失うほど疲労困憊していました。
仕事の疲れで、身体に限界がきていたようです。
仕事で徹夜明けの早朝、階段を降り始めた途端、右ひざの力が抜けて、
宙を前回りしながら階段を落ちました。
昔、柔道で散々受け身をやらされたのが、30年経っても身体と感覚が憶えていました。
あ、次はこの向き、次は腕から肩へスルッと、という感じでスローモーション的感覚で巧く回り...
頭や顔面は無傷。右ひじに擦過傷と軽い打撲、左後方の肋骨が軽い打撲程度で済んだ、と思ったら、
最後に速度を殺してフワリと背を着けた所が階段の角で、背中がクシャッと潰れた感じがしました。
痛みがだんだんひどくなり、病院に行って、初めてCTスキャンを撮りました。
リアルな臓器画像をたっぷり見せてもらえました。鮮明で立体的な画像は素晴らしい。
仕事の絵の資料にデータをもらいたいぐらいでした。
こんな具合に肋骨が折れて、腎臓などの臓器を損傷しなかったのは幸運だったとのこと。
普通に落ちていたら、首か背中の骨を折って人生終わりになっていた可能性が高いです。全く不幸中の幸いでした。
日に三度二種類の痛み止めを飲むのですが、案外効かないもんですねぇ...
寝たり起きたりが困難。すごく時間がかかるか、苦闘の末、無理で諦めるか。
笑えるくらい痛いですね、骨折は。
クシャミは絶対に避けねばなりません。
肋骨の癒合には4週間くらいかかるそうですが、1ヶ月以上経った今でも、まだまだ痛いです。
骨折すると疲労がひどい。睡眠がとても必要になります。
13日、にゃんこのユキちん死去。22歳でした。
最後の数ヶ月は、もう身体中ボロボロで、毎日オムツ替えでした。
生き物は、老いてくると哀れです。
私は骨折で、まだ、まともに歩けない状態でしたが、ペットの斎場に向かいました。
数年前、ユキちんの兄弟のポッポさんを葬ってもらった斎場です。
28日、実父が死去しました。業の深い人で、多くの人の心を傷つけた人でした。
日航でDC8から当時運用が始まったばかりの新鋭機ジャンボの機長になろうという大事な時に、遊びで操縦していたセスナが墜落し大火傷を負い、「蛍の墓」のお母さんそのもののような姿になりました。
何百人の命を扱うパイロットなのに、機体の限界を越えるようなアクロバットをするのが好きな人でした。
自衛隊に入って戦闘機のパイロットになれば良かったのに。
腕は相当良かったようなのですが、自信家過ぎたようです。
私は、撃ち合う飛行機の姿が嫌いですが、レースや曲技飛行も嫌いです。危険やむごたらしい死がつきまとうから。
なんで観客は、ただ真っ直ぐに優雅に飛ぶ飛行機だけでは満足出来ないのでしょう…
飛行機はあるだけで美しい。真っ直ぐ飛ぶだけで麗しい。
数年後、社界復帰と同時に妻子を捨てました。離婚が決まって、こちらは幸せ過ぎて泣きながら万歳をしました。
何度も捨てられたり、錐で脚にブスブスと穴を開けられたり、精神的に殺されるようなイビリは常に受けていました。
物心ついた時から常に死を覚悟していました。毎日の一瞬一瞬が重く、速く過ぎ去って欲しい「時」でした。
離婚が遅れたら、たぶん私は子供のうちに死んでいたでしょう。
愛人と一緒になりたくて妻子が邪魔で捨てたのに、養育費はゼロで、母は大変な苦労をして姉と私を育てました。
両親が揃わないと子供が可哀想というのが世間には多い考え方ですが、いない方が良い親というものもいます。
まるでイタリア男のように外面は良いのですが、支配下の家族や与し易しと思った相手には残忍でした。
そういう人だから、その後も何人も愛人がいたようですが、皆去って行ったようです。
50を過ぎた頃に脳の半分が出血で駄目になり、もう最期だからということで、福岡まで行きました。
今度もまた、新鋭機A300への転換の時期でした。
植物状態としても、脳幹の腫れがひどく呼吸も出来なくなり、3日が限界。
話しかけても、もう意識はありません、声は届きません。手を握っても反応はありませんとの医者の説明でした。
その姿を見て、憎い父ではあったけれど哀れに思えました。
中年なのに、肌艶は良く、良く鍛えた筋肉...こんな立派な身体でも、脳が駄目になったら終わりなのか...
父はラジコン機作りが趣味でした。
父の手を握り「ラジコン機が待ってるよ。作りかけもあるし...」とささやきかけたら、
指がムズムズと動いて握り返し、「むう、うおおおお」と唸りました。
あ、この人、意識が戻るなと感じました。
面会を終えて、医者に「蘇るかもしれませんよ」と言ったら、気の毒な人を憐れむような顔をされました。
それから3日後、父は蘇りました。その後は半身不随として長く生きました。
5年ほど前、また意識を失い、今度こそ植物状態になりました。
その後、病院とのやりとりで、これ以上延命治療はせずに自然に任せることになりましたが、
それでも生き続けました。恐るべき生命力...
嵐のような人生でしたが、ようやく楽になれたのではないでしょうか。
4月から5月は、仕事の量と質が尋常ではありません。
骨折で体力を失ったのもつらいところです。
なんとか乗り切って安堵したいです。
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